疲れて寝ちゃった説教
2006 / 10 / 22 ( Sun )
2 大陸合理論、主にデカルト

 大まかに言って、思想史の近代とはこの人から始まる。モンテーニュ、パスカルというモラリストたちに続き、フランスでは学問の伝統にも揺さぶりをかける大器が登場した。ルネ・デカルトRene Descartes1596-1650である。

 モンテーニュのところでみた「懐疑」を更に徹底的に厳密に使用し、あらゆるものを疑ってみる。確かなものに至るための方法的懐疑である。

 デカルトは主著『方法序説』において「良識bon sens はこの世で最も公平に配分されているものである」と言う。良識という言葉は我々には馴染みが余り無く、解り辛かろう。ひとまず「理性」とでも言い換えてみて欲しい。この言葉が真理を突いているなら、なぜ我々人間は間違いを犯すのであろうか。それは、良識の使い方、理性の使い方が解っていないからである。与えられたものはもともとは平等なのである。

 さて、デカルトは理性を正しく働かせてとうとうこういう結論に至った。「我思う故に我在りcogito ergo sum. / Je pense, donc je suis.」。あらゆるものを疑ったのち、しかしてそのように疑っている「われ」の存在を、デカルトははっきりと認めたのだ。そして、「考えるわれ」を全ての思惟の出発点に据えたのだった。

(つづく)
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秋晴れの説教
2006 / 10 / 12 ( Thu )
② ブレーズ・パスカルBlaise Pascal 1623-62

 パスカルはまず数学者・科学者としての方が有名かも知れない。天気予報で使う単位ヘクトパスカルの名は因んだものだし、パスカルの法則などもある。16歳で『円錐曲線論』を著すなど、早熟であった。31歳で思索的生活に入り、34歳から『瞑想録=パンセ』の草案を起こした。そして、早熟な分であろうか、病弱のために39歳で亡くなっている。この書物は草稿のまま未完に終わった。しかし、沢山の断章から成り我々も翻訳の文庫で読むことができる。是非、いくつかだけでも目を通して欲しいと思う。 

 最も有名なのは「考える葦」の断章である。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。・・・(中略)・・・われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある」。パスカルが自然科学者であったことが、むしろこの結論を導き出し得たのかも知れない。自然の法、自然の摂理の偉大さを思い知っているがゆえに、パスカルは人間の力の卑小さをわきまえていた。その人間のとりえは何だろうか? それは、自ら考えるという点である。自然はどんなに偉大であっても自ら意識を持って考えるということはない。

 ここで、もう一つパスカルの特徴を挙げておかねばならない。パスカルは敬虔なキリスト教徒だった。教会の権力が強い中世を通り抜けたところで、何故? と思われるかも知れないが、人間の創造主はパスカルの思想に於いてもやはり神なのであった。キリスト教に反発するのではなく、神の作りたもうた創造物としての人間に尊厳を見出した、というところだろうか。パスカルは三段階に分けている。「身体の秩序」は簡単に言えば物欲の段階である。確かに物質的な豊かさは生きて行く上で必要なものであり、簡単に蔑視すべきものではない。しかし、それだけでは人間としてどうだろう。次の段階が「精神的秩序」である。叡智を求めようとする態度は人間を高める。豊かな知識はその人を一層豊かにするであろう。が、更に、人間の本当の価値は知識にあるのではなく、「愛」であると言う。この「愛の秩序」は身体的偉大とも、精神的偉大とも、何の関係も無い。

 現代は愛という言葉が余りにも溢れ過ぎていて、パスカルの込めた意味がわかりにくかろう。では、愛のところを「人柄」とでも言い換えてみて欲しい。少しは実感が湧くのではないか。

(つづく)

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10月も説教
2006 / 10 / 05 ( Thu )
[5]モラリストと大陸合理論

1 モラリスト

 ルネッサンスや宗教改革とほぼ同時代から始まった、もう一つ重要な思想的動きがある。モラリストたちの出現である。モラリストとは人間性を反省する現実的な思想家たちである。中世が神と教会関係者の時代であるとしたら、近代の幕開けは人間へと視点を移し替えた時代だったのである。

① ミシェル・ユケーム・ドゥ・モンテーニュMichel Eyquem de Montaigne 1533-92

 ルネッサンス時代のフランス人である。まず出発点は人間であり、自分自身に対する深い内省から始まっていた。「私は何を知っているかQue sais-je?」。「私」が感じる知覚にも、また「私」が思惟することにも、絶対的に確かな根拠は無い。このように、全てのものを疑ってみる姿勢を「懐疑主義」と言う。ただし、あらゆるものが根拠になりえない、知そのものを否定してしまえという「絶対的懐疑」ではなく、確かなものに至るための一つの方法、つまり「方法的懐疑」だった。この態度は近代の扉を本格的に開けることになったデカルトに引継がれる。

 モンテーニュの著書は『随想録(=エセー)』が代表的である。フランス語でessayerとは「試す」という動詞である。このessaiは名詞形で試験・試作・試論・試技といった意味がある。随分と分厚い本なので、今全部読んでいる暇は無いと思う。いつか読んで欲しい。そうした思索の果てに行き着いたところは「人間それ自体が価値」ということであった。現代、そんなことは当たり前で何を今更と思うかも知れないが、この時代は漸く神中心・教会権力の強大な中世を抜けたばかりだったのである。「われわれの病弊のうちでもっとも野蛮なのは、われわれの生存を軽蔑することである」。

(つづく)

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秋の説教しゅうかん
2006 / 09 / 19 ( Tue )
 ツヴィングリの後、フランス人ジャン・カルヴァンJean Calvin 1509-64が出てスイスのジュネーヴで活動した。主著『キリスト教綱要』で「予定説」と「職業召命観」を中心に説く。予定説とは、神は絶対的な超越者であってあらゆる現象が神によって予定されたものであるとする考え方である。救われる者も滅ぶ者も予め神によって定められている。人間からの働きかけとは無関係なのである。従って、人間は救われようとして善行を為すのでなく、無条件に神の栄光を讃えるべきなのである。また、職業は神から与えられた思し召しで、仕事をして対価を得ることは正しいことなのである。このような考え方が以後、近代の資本主義へとつながってゆく。

 マックス・ウェーバーは近代の思想家であるが、このプロテスタント的職業召命観と近代資本主義の関係を読み解いた名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の名とともに覚えておこう。

(つづく)

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後期が始まった説教
2006 / 09 / 11 ( Mon )
2. 宗教改革(承前)

 そして、ドイツにいよいよ真打が登場する。マルティン・ルターMartin Luther 1483-1546である。当時、ローマカトリック教会では「贖宥状=免罪符」というものを発行し、売った。その札を買いさえすれば罪を犯しても救われて天国に行けるというご利益のある札である。この一文を読んだだけで、それがまがいものであることなどすぐに判るだろうが、当時の人々はそのようなことを口に出せなかった。教会権力が強かったからであるし、また単純に長いものに巻かれて生きることが楽であると知っていたからだ。贖宥状は教会の財政を支えるために乱売されていた。そこを敢えて告発したのがルターだった。1517年、ヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の意見書」を貼り付け、人は信仰によってのみ救われるのであると、真っ向から批判した。大した勇気である。この事件を以て宗教改革の発端と見做す。

 ルターのキーワードは三つである。パウロのところで既にみた「信仰義認説」、「福音主義」、そして、「万人司祭説」。それぞれ重要であるから理解しておこう。殊に最後のものは当時の世間にあった宗教的身分を排する考え方で、カトリックの聖職者の権威を否定するものだった。主著『キリスト者の自由』でこれらの思想が語られている。

(つづく)

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夏休みももうすぐ終わり説教
2006 / 08 / 27 ( Sun )
2 宗教改革

 イタリアを中心として花咲いたルネッサンスがヘレニズムの再生であるとしたら、北方ルネッサンスの宗教改革はヘブライズムの再生である。

 宗教改革のさきがけは、イギリスのジョン・ウィクリフJohn Wicliff 1320頃-84であった。ローマカトリック教会からのイギリスの独立を主張し、当時の教会の世俗的権力を批判した。コンスタンツの宗教会議で異端とされる。

 次に東欧ボヘミヤのヤン・フスJan Huss 1369頃-1415が重要である。ウィクリフの思想に共振し、激しくローマカトリック教会を批判、民衆の支持を得た。やはりコンスタンツの宗教会議に召喚され、火刑となった。凄惨な死に方である。

 イタリアのジローラモ・サヴォナローラGirolamo Savonarola 1452-98は余りにも厳格な神政政治を試みたため、市民がついて行けなかった。やはり火刑に処せられ死んでいる。

(つづく)

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盆おわり説教
2006 / 08 / 20 ( Sun )
[4] 近代の幕開け

 ここでは中世について深く触れなかったのだが、本来キリスト教と哲学とが結びついた時代は禁欲的で、思想統制の厳しい時代であった。原始キリスト教時代からおよそ1200年の間、我々の想像を絶する拷問が行われて来た。

 勿論暴力というものは中世だけにあったのではない。人間の歴史がある限り暴力はあり続ける。暴力を全く排除することは未だにできないではないか。しかし、自由に考えるということそのものを弾圧されるのは人間にとってひょっとしたら最も辛いことかも知れない。西洋世界の中世とはキリスト教会が幅をきかせていた、そしてキリスト教の教義に適わない考え方は直ちに異端と見做され処罰された、暗黒の時代であったとも言える。

 これから話をするのは、そうした長い長い中世の暗闇を抜けたところに光がさす時代のことである。我々は普段「自由」過ぎて、彼らのその解放感が実感として解りにくいかと思う。

1 ルネッサンスRenaissance

 ご存知の通り「再生」という意味である。フランス語でnaissanceは生まれることを意味する。接頭辞reは再びという意味である。では、何を「再」生と言っているのか。

 西洋思想の二つの源流はヘレニズムとヘブライズムであった。中世がキリスト教思想の発展した時代であったわけだから、そして「哲学は神学のはしため」などと言われていたのだから、言葉の上だけでもヘレニズムが押しやられていたことになる。ならば、古代ギリシア思想が再び生まれ直した、と考えるのが妥当であろう。そして、その通りなのである。

 古代ギリシアの文化を思い出して欲しい。ギリシア神話の神々は八百万の多神教の神々であり、その性格は非常に人間臭い。そして、神話の世界を脱出してアルケオロジーの時代に自然科学的思考が発展したのだった。更にソークラテースが出現して人間中心の人生観・倫理という発想が出た。それ以後はプラトーンとアリストテレースに引継がれたのであった。

 このような意味では古代ギリシア文化の再生なのである。ただし、古代ギリシアの思想がもう一度語られたわけではない。神が尊くて人間は卑小なものと考えるキリスト教的価値観をひとまず脇に置くという姿勢、つまり「人間性の尊重」という点が古代ギリシア的なのである。

 以下、イタリア半島の思想家たちを中心に挙げておく。なお、この中でモアはイギリス人、エラスムスはオランダ人なので注意のこと。

ダンテ・アリギエーリDante Alighieri
フランチェスコ・ペトラルカFrancesco Petrarca
ジョヴァンニ・ボッカッチョGiovanni Boccaccio
レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラGiovanni Pico della Mirandora
デースィーデリウス・エラスムスDesiderius Erasmus
トーマス・モアThomas More
ニッコロ・ベルナルド・マキアヴェッリNiccolo Bernardo Machiavelli

(つづく)

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またビータの前に説教
2006 / 08 / 13 ( Sun )
2.イスラームの思想

 聖典『アル・クルアーン(コーラン)』はムハンマドが神アッラーから受けた天啓を文章にまとめたものである。ただし、ムハンマドが書いたのではなく、死後に信者たちが編纂したものである。

 ムハンマド自身はやはりイエス同様神などでは決してなく、神の言葉を伝える預言者の一人であった。時代的にもアラビアの人々はモーセやイエスのことを知っている。彼らを踏まえて、ムハンマドを最大の預言者とした。

 イスラーム教の信徒を「ムスリム」と呼ぶ。ムスリムにとって重要なことは「六信五行」にまとめられる。六信とは「六つの信ずべきこと」である。

1 神アッラー
2 天使
3 聖典
4 預言者
5 来世
6 天命

 また、五行とは「五つの行うべきこと」である。

1 信仰告白(シャハーダ)
2 礼拝(サラート)
3 断食(サウム)
4 喜捨(サダカ/ザカート)
5 巡礼(ハッジ)

 イスラーム教の戒律はユダヤ教ほど厳しく細かいものではないにせよ、豚肉食・飲酒の禁止などやや普遍性を欠くものもある。また、一日5回の礼拝は現代先進国での生活の中ではなかなか実行が難しいかも知れないものだ。

 我々はまずイスラームの思想に擦り寄って異文化理解に努めなければならない。あなたが信じるかどうかは別問題として、こういう考え方もある、ということを知るべきなのだ。それはどんな宗教を扱うときも同じ望ましい姿勢である。

 駆け足だったが、以上で古代・中世の西洋思想をひとまず終わる。

(つづく)

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おでかけ前に説教
2006 / 08 / 06 ( Sun )
[3] イスラームの思想

 世界の三大宗教の一つである。にもかかわらず、我々には余り親しみがなく、昨今の宗教戦争に絡めて良い印象を持っていない人も居るかも知れない。しかし、その教えは唯一絶対の神アッラーを信仰する点でユダヤ教に似ており、またあらゆる人の平等を説く点でキリスト教に似ている。我々は今やこれら二つの宗教のことを簡単にではあるが知ったのだから、やはり恐れるに足りない。冷静にその思想に触れていこう。

1. 開祖ムハンマド

 7世紀前半、つまりアウグスティヌスより更に300年ほど後のことである。アラビア半島にあるメッカという都市にムハンマドという男が居た。マホメット、とも表記されるが、この名はイスラム世界には珍しくない名である。若い頃商人であったが、40歳の頃唯一神アッラーの天啓に触れてイスラム教の開祖となった。神の啓示は以後20年余りも続き、ムハンマドはユダヤ教・キリスト教で言う預言者の一人となった。

 当初アラビア半島の民族宗教は多神教で、メッカの人々には受け入れられず、町の支配者層はムハンマドとその教えに従う比較的少数のものたちを迫害した。そこでムハンマドたちはメディナという都市に逃れた。これを「聖遷=ヒジュラ」と呼ぶ。その年622年、宗教共同体をメディナで立て直すと、630年には再びメッカに帰った。そして今度こそはイスラームの教えをアラビア半島に広める土台を作り上げたのだった。

 2年後の632年にムハンマドは死ぬ。しかし、その教えは普遍的であったために世界宗教へと拡大していった。やがて政治上でも大いなるイスラーム帝国が成立する。

(つづく)

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激お買い物反省してプチ説教
2006 / 08 / 02 ( Wed )
4. 中世教父哲学(承前)

 更に1000年ほど後、1225年(推定)にトマス・アクィナスが生まれる。キリスト教の教義と、ギリシアの、特にアリストテレースの哲学とを結びつけた。そしてキリスト教の思想を厳密な論理で武装させ、更に強力なものとした。これを「スコラ哲学」と言う。宗教と哲学とは、信じることと疑うことであって、相容れないものの筈だった。しかし、トマスは信仰に奉仕する限りにおいて哲学を使用する。「哲学は神学のはしためである」と、これ以後高らかに教会はうそぶくことになる。スコラ哲学は教会をますます発展させて行った。

 著書『神学大全』は41歳頃手をつけられ、膨大な量に及んだ。大全と言われる所以である。

 こうして、凄惨な死を遂げたイエスの宗教思想は、使徒・教父たちの超人的な働きにより、以後2000年以上も西洋思想の中核となっている。

(つづく)

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夏休み説教
2006 / 07 / 30 ( Sun )
4. 中世教父哲学

 さて、時は一気に300年以上下る。ローマ帝国で迫害を受け続けたキリスト教であったが、次第にローマの人々にもその精神性ゆえに受け入れられ、何とローマ帝国の国教とまで発展するのであった。中世はキリスト教全盛の時代である。

 神の言葉を伝える媒介者としての教会は、キリスト教の中心として次第に力を持つ。その教えを脈々と伝える教会の指導者のことを「教父」と呼ぶ。最大の教父はアウグスティヌスであった。アウグスティヌスは北アフリカの生まれで、青年時代カルタゴに遊学し享楽的な生活を送ってしまった。その後哲学に目覚め、またマニ教徒となる。精神的な浮き沈みの激しい人である。32歳の時ミラノの自宅で奇跡の声を聞き、聖書を手に取った。爾来、キリスト教へと突っ走るのであった。

 彼の思想は勿論イエスとパウロに基づいているが、パウロの説いた信仰・希望・愛という三元徳を強調し、ギリシアのプラトーンの説いた四元徳はキリスト教のこれらと結びついてこそ真の徳となる、と言う。古代のギリシア思想をよく知っているからこそのヘレニズムとヘブライズムの融合である。

 また、「恩寵=カリタス」を基に終末観を強調する。恩寵とは神の意志によって無償に与えられる救いの恵みである。キリスト教の世界観では、世界には始まりがあり、終わりがある。その最後の時に誰が救われるのかは神の予定していることであって、教会は神の意志を伝える場である。

 著書『神の国』は73歳の時完成された大作である。人間の歴史は神の国と地上の国との争いで、やがて神の国が勝利すると言う。神の国の代わりに地上の国に出張しているのが教会なのである。この考え方により、教会は力を集めた。

(つづく)

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へろへろのつなぎに説教
2006 / 07 / 20 ( Thu )
[2] ヘブライズムの思想(承前)
3. 原始キリスト教・ペテロ・パウロ(承前)

 もう一人重要な人物が居る。熱心なユダヤ教徒でイエスを迫害する立場であったサウロである。ある日、光に打たれて既に死んでいる筈のイエスの声を聞く。「サウロ、サウロ、なぜあなたは私を迫害するのか」。以後、サウロは名をパウロと改め、キリスト教徒として生まれ変わる。ただイエスの奇跡にあったから回心した、と単純に考えるのは余りに短絡である。数々の迫害の途上でサウロの胸の内疑問が膨れ上がっていたところだったのであろう。興味ある人はパウロについて調べてみよう。

 サウロがパウロとなってからはイエスの教えをキリスト教として伝道するのに、やはり生来の熱心さで行動した。ユダヤ教では神の律法を厳密に守ることが神に対する信仰の提示であった。しかし、守りさえすれば救われるという、真心を伴わない律法の遵守は、やはり間違っているのではないか。イエスの教えの方が正しいのではないか。信仰によってのみ、人は救われるべきなのではないか。このイエスの考え方は選民であるユダヤ人だけに当てはまるのでなく、信仰をもつ人なら誰にでも適用できるため、普遍性を持っている。従って、布教先の各地で受け入れられた。パウロはギリシア・ローマ世界を広く行脚し、キリスト教が世界宗教となる礎を作ったのである。この、信仰によってのみ救われるという考え方を「信仰義認説」と短く呼んでいる。「信仰・希望・愛」はキリスト教の三元徳とされる。

 やはりペテロと同じくネロの迫害にあって殉教した。

(つづく)

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連休中も説教
2006 / 07 / 16 ( Sun )
[2] ヘブライズムの思想(承前)

3.原始キリスト教・ペテロ・パウロ

 イエスは死んだ。そして、予言通り復活したという。かつて生前のイエスについて布教活動をしていた最も近しい使徒がペテロだった。『新約聖書』の「福音書」には彼の敬虔な行動と共に、非常に恐ろしい記述がある。イエスを好ましく思わないユダヤ教の司祭側の人々がイエスを刑死へと追い込む時に、使徒ペテロを見咎めて追い詰める場面がある。一番弟子である筈のペテロは、その時イエスのことを「知らない」と言ってしまうのである。ペテロは死を逃れるが、イエスは全人類の罪を贖い、自分を嘲る者のためにまで祈りながら死んだ。ペテロの心中はいかがなものであっただろうか。しかし、これが弱い人間一般の現実の姿ではあろう。

 ペテロはイエスの死後、自己の弱さを償うかのように精力的に布教活動をした。エルサレム教会を作った中心人物である。そして、結局はやはり凄惨な死を遂げた。ローマ皇帝で有名な暴君ネロによる迫害死であった。

(つづく)

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七夕が終わって説教
2006 / 07 / 08 ( Sat )
2. イエス=キリスト(承前)

 このような、無差別平等、自分を厭うもののためにさえ惜しみなく降り注ぐ愛、無償の愛のことを「アガペー」と呼ぶ。古代ギリシアの思想で見てきた価値あるものを目指そうとするエロースとは対照的である。自分にとってどんなに価値の低いものであっても、この愛は等しく降り注がれるべきなのである。実践する立場の自分には非常に厳しいことなのがわかるだろう。

 ところで、イエスはなぜキリストと呼ばれるか。教徒は勿論知っていることと思う。これは、名前ではない。「救世主」のことである。ユダヤ教以来、いつかこの苦しい世界を救ってくれる人が現れるという信仰があり、その救い主「メシア」のことがギリシア語ではハリストス、つまり日本語の干渉で訛った「キリスト」なのである。後世の私たちは、イエスという人をユダヤ教を批判し新しい宗教を始めた開祖であると思いがちだが、やはり「救世主イエス」と呼ぶからには最も厳格なユダヤ教徒であったと考えるべきだろう。

(つづく)

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オリブ山の説教・・・・・・
2006 / 07 / 06 ( Thu )
[2] ヘブライズムの思想(承前)
2.イエス=キリスト

 ユダヤ教では厳しい戒律を守ることによって、人は唯一神ヤハウェとの契約を履行する姿勢を示す。戒律は微にいり細に亙るものだが、兎も角それらを厳粛に守り通して生活することが神への信仰を実践に移すのだと見做される。こうして、古代の人々はとかく欲望に乱されがちな民衆をうまく統率してユダヤ民族を宗教によってまとめたのである。

 ただ、時代が下るにつれて次第に律法に従うことが形骸化してしまう側面もあった。本来の神への忠誠心は置き去りに、規則を守ることだけが重視されがちになって来る。見方によっては本末転倒の事態である。

 そのような時、現れたのが世界史上最大の人物(何しろ「紀元」はキリスト紀元であるから!)イエスである。現在では研究が進み、紀元前4年頃の生まれとされる。処女マリアが天使から受胎告知を受け、懐妊、出産したと言われる。精子を得ないで生まれたということは、生物発生に関する自然科学的説明ができない奇跡である。イエスは幼時より秀でており様々な奇跡を起こした。30歳頃から深い思想に基づいた布教活動を行い、不治の病を手を置いただけで治したり、死者を蘇らせたりして、民衆の絶大な支持を集めた。イエスの教えに共感する弟子たち=使徒たちも一緒にイエスの教えを広めるべく布教活動した。

 やがてこの評判を恐れたユダヤ教徒たちと当時のローマ帝国の者たちが、イエスを排除しようとした。そしてイエスもまた、死を受け止めたのであった。それは彼を憎み、さげすみ、罵る者たちのためにまで及ぶ祈りを捧げた上での至上の自己犠牲であった。その惨めで最低で最悪の死に方は『新約聖書』の四つの「福音書」全てに記録されている。特に「マルコによる福音書」は最も初期に書かれたもので、イエスの受けた辱めが読む者の痛みを引き起こす。一度は読んでおくべきである。冷静ではいられないかも知れないが。

 自分を愛してくれる者のために死ぬのは簡単なことである。

 もしあなたが、かけがえのない大切な人(あるいは飼い犬)を持っていて、その人のためなら何でもできると思える時、自己の命を捧げることはできる筈だ。できないならば、本当はそれほど大切ではない人(あるいは飼い犬)なのだ。自分の命の方が大切ということだから。人は、価値のあるもののためになら喜んで自己犠牲ができる。

 しかし、イエスのしたことは何だろうか。自分を罵り辱める者のためにさえも祈るのである。

 蛇足ながら。ここをご訪問下さっているヤマト好きの方々に、わたくしが『さらば宇宙戦艦ヤマト』をもはや受け入れられないという理由が解って頂けるだろうか。あれは視聴者を感動させる驚くべき力を持った傑作だった。しかし、今となってはその思想に疑問を抱かずにはいられない。『さらば』に関する議論はとうの昔に尽くされたことであるが、作品としてのクオリティは極めて高いと認めるものの、その思想は全く受け入れられない。(ただし、わたくしはキリスト教徒でもない。)

(つづく)

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説教かけあし
2006 / 07 / 03 ( Mon )
1. ユダヤ教(承前)

 その後、何百年も経ち、世代が何代も交代して大洪水に見舞われた時があった。この洪水は自らの創った世界が穢れてしまったことを憂えた神が粛清を行うためのものであった。ノアという男は義人であったので、神はノアに命じて一族と一つがいずつの動物を大船に乗せ、逃れる手はずを整えさせた。こうしてノアの方舟に乗った以外のありとあらゆる地上の生き物が粛清されたのち、神は世界を再出発させたのである。
(→『創世記』)

 さて、また長い長い時を経て、ノアの子孫たちは新たな人類として殖えていた。エジプトの地にまで殖えていた。ところが、エジプトの地には先住の民がファラオを中心に栄えており、彼らはユダヤの民の殖え方に恐れを抱いた。そこで、ファラオはユダヤ民族を強制退去させた。その頃のユダヤ民族の指導者モーセはよく民をまとめ、エジプトから出て荒野を渡った。

 苦難の旅の途中、シナイ山でモーセは神と対話することになる。悪徳に囚われがちな人間を戒めるために基本的な十の戒律を石版に刻み与え、絶対に守らせるよう命じたのである。これがいわゆる「十戒」である。
(→『出エジプト記』)

 ここで、おや、と思った人もいるのではないか。地上にはアダムの子孫だけではなくて別の民族も居たのか? エジプト人はユダヤ民族とはまた別に生まれたのか?

 ユダヤ的な考え方では、自分たちだけが唯一絶対の神に選ばれたという「選民思想」がある。ユダヤ民族は律法を厳守することにより神に応え、護られるのである。この律法は神と人との間で交わされた「契約」だったのである。それが「旧約」と呼ばれる所以である。そして、モーセのように神からの言葉を預かる優れた指導者のことを「預言者」と呼ぶ。神と民衆との間に立って働く預言者たちの姿が、このあとも聖書の中に続く。

(つづく)

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説教つづき
2006 / 06 / 28 ( Wed )
1. ユダヤ教(承前)

 旧約とは、旧き約束、という意味である。太古、唯一絶対の神が世界を創造した。その神は神の似姿として最後に人間を創造し、七日目に休んだ。

 最初の人間アダムと、その肋骨から生まれた妻エバは、エデンの園で何不自由なく幸せに暮らしていたが、ある日蛇にそそのかされて神から禁じられた果実を食べてしまう。それにより二人には知恵がつき、神のように自分で考え善悪の判断をする能力が身についてしまった。神は無花果の葉で前を隠している二人を見て、彼らが禁を犯したことを知り、激怒して楽園から追放した。これが全ての人間が以後背負っている罪「原罪」と呼ばれる。

 アダムとエバの二人の息子たちカインとアベルも血に塗れている。兄カインは弟アベルに嫉妬して殺してしまう。人類の原罪はカインに引き継がれた。

(つづく)

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説教新局面
2006 / 06 / 11 ( Sun )
[2] ヘブライズムの思想

 これから扱おうとしている分野は非常な注意を払って語られねばならない。宗教思想だからである。「不条理なるがゆえに我信ず」という言葉を聞いたことがあるだろうか。哲学と宗教とは、共に思想という軸線上に乗ってはいるが、それと真摯に向き合うことは相反する行為なのだ。哲学は冷静に考える行為であり、極言すれば疑うことである。しかし、宗教は感性に深く触れたものに対して盲目的に絶対服従することである。従って、時に狂信的な信者を生み出し、過激な行動に駆り立てることもある。宗教紛争がその目に見える例だ。宗教紛争で戦う人々は決してめげることがない。自分の信ずるものが絶対的に正しいと信じているからである。信じているもののために戦うことには至上の価値がある。だから、そうした人々は挫けないのだ。これほど強いものは無い。(→Cf.『さらば宇宙戦艦ヤマト』)

 ひょっとしたら、宗教は何だか訳のわからない怖いもの、と感じているかも知れない。ただここでは西洋・中東世界の重要な思想として扱うので、冷静に眺めて欲しいと思う。西洋文化の二大源流は一つは古代ギリシア思想=ヘレニズム、もう一つはユダヤ教・キリスト教思想=ヘブライズムである。両方とも非常に重要な柱なので、思想史を辿る上で避けて通るわけには行かない。盲目的に信ずるのでなく、まずはヘレニズム同様冷静に理解するよう努力して欲しい。信ずるかどうかはその後の個人的な問題である。恐れるなかれ。

1. ユダヤ教

 紀元前1450年頃、現在のパレスチナ地方であるカナンの地にヘブライ人たちが居た。彼らは王国を建設し、栄えた。紀元前1000年頃ダヴィデ王と、その息子ソロモン王の頃王国は最盛期を迎える。ところがその後王国が南北に分裂し、北のイスラエル王国はアッシリアによって滅亡させられ、南のユダ王国も新バビロニアによって滅亡させられた。バビロン捕囚後、苦難の時期を生き抜いたヘブライ人たちは半世紀を経て帰国する。この頃まとまったのが唯一絶対の神ヤハウェ(=ヤーウェ=エホバYhwh)への信仰をもとにするユダヤ教であった。ヘブライ民族はこうして民族の宗教ユダヤ教のもとにまとまりを見せ、これ以後ユダヤ教を信じて団結したヘブライ民族のことをユダヤ人と呼ぶ。

 ユダヤ教の中心となる成文化された法律は『旧約聖書』、口伝の法律は『タルムード』である。殊に『旧約聖書』は民族の歴史書であり、西洋・中東文化理解には絶対不可欠の資料でもある。教徒でなくても教養人たるもの一読はすべきである。これから暫く、この『旧約聖書』に沿ってユダヤ教の思想を辿ることにする。

(つづく)

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煩悩に負け続けず説教
2006 / 06 / 08 ( Thu )
7.ヘレニズム時代

 アリストテレース門下の活躍が爛熟を経たのち、B.C.4c頃だがポリスが崩壊し始めた。ギリシア連合軍を敗北させたマケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征し、ギリシア文化とオリエント地方の文化は大規模に混合し始めたのであった。その結果人間は国家から投げ出され、それまであった規範が揺らぐ。個として自己を見つめ直さねばならなくなった。もはや縋るべき安心なポリス・国家は無い。このような時代に現れたのがサモス島出身のエピクロスEpikurosとキプロス島出身のゼノンZenonである。

 エピクロスは「快楽」を幸福と考える。この快楽という言葉は非常なる注意を以て取り扱われねばならない。永続的で精神的な快楽のことで、肉欲など感覚的な享楽のことを意味しているのではない。現代安易に使われる快楽主義者エピキュリアンという言葉は正反対の意味合いになってしまっているのが皮肉である。魂が平安で何事にも揺ぎ無い平静な状態のことを「アタラクシア」と呼ぶ。従って、心の平安を乱す俗世間から「隠れて生きよ」と説く。そして、アテーナイに開いた「エピクロスの園」で弟子たちと簡素な生活を送ったのである。

 もう一人のゼノンは「ストア派」の開祖となった。人間は情念から自由になるべきである、と説く。情念に囚われているうちは賢明な生き方ができない。今日ストイックという言葉は禁欲的という意味であるが、まさに禁欲的な生き方がゼノン派の理想であった。情念から自由であることが賢者の理想の境地「アパテイア」である。

 この二人の思想はある意味で似ているが、三大哲人の思想に比べてしまうと消極的なものであった。

(この項終)

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久しぶりに説教
2006 / 06 / 03 ( Sat )
6.アリストテレース(承前)

 更にアリストテレースの国家論は習性的徳の中で特に「友愛=フィリアphilia」を重視する。「人間はポリス的動物である」と語る。人は社会の中で、人と人との結びつきの中でこそおのれの本性を完成しうるのである。だから、人との関係で互いの善さに惹かれ、互いにより善い人間になることを目指して協力するべきである。相互応酬的な好意が重要である。これが人間の結合原理なのである。友愛=フィリアは友人の間だけにあるのではなく、親子、夫婦、歳の離れた者の間にも成立する広い愛である。やはり日本語に訳しづらく友という字をつけてはいるが、友情とも違うより広い愛の考え方である。

 この人間の結合原理友愛の上に、もう一つ「正義」を重要視する。正義は特定の関係において成り立つ「部分的正義」とポリスの法に従う「全体的正義」とに分けられる。部分的正義は更に各人の能力や働きに応じた「配分的正義」と利害得失の調整をはかる「調整的正義」とに分けられる。

 ともあれ、アリストテレースは流石に万学の祖と言われるだけのことがあり、その思想領域は余りに膨大である。興味ある諸君には詳細アリストテレース専門の講座を受けて頂きたい。

 最後に一つだけ「リュケイオン」という名を挙げよう。アリストテレースがやはりアテーナイに開いた学園の名で、フランスの高等教育学校リセの語源になった言葉である。ここの散歩道を逍遥しながら知的な議論をしたため、アリストテレース門下の学派は「逍遥(ペリパトス)学派」と呼ばれている。

 こうしてみると、ソークラテース、プラトーン、アリストテレースという三大哲人をほぼ同時期に生み出した古代ギリシア世界は、何と驚異的な時代だったことかと思う。革命的なことが起こる時期というのは他の革命的なことを誘発するようだ。

(つづく)

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